首都高速3号線を用賀で降りて環八から世田谷通りを左折すると、ちょっと変わった外観のマクドナルドがあった。このマクドナルドは米国1号店の再現で、店内には創業当時の写真が貼られていたのだが、残念ながら今はない。ちなみに米国1号店とはマクドナルド兄弟の店ではなく、レイ・クロックが1955年4月に開いたシカゴ店を指す。
さらに世田谷通りを進みNHKの研究所を過ぎると左手に国立成育医療センターが見えてくる。国立成育医療センターには難病の子供も多く、全国から親子が上京するので親のための宿泊施設が欠かせないのだが、近所にはホテルなどはない。病院に隣接してドナルド・マクドナルドハウスが建っているだけだ。
うちの子供が入院していたときに、はじめてドナルド・マクドナルドハウスのことを知り、それまでの藤田田のイメージが180度変わった。国立病院の敷地内に民間の宿泊施設を建てるのはかなり大変だったと思う。藤田田は企業ではなく財団を設立して様々な規制をクリアしたようだ。ところで、藤田田が亡くなったときの日本の新聞の扱いはひどかった。業績不振で退任した直後だったし財界活動もしていなかったから、扱いを小さくしたのだろう。
そんなことから、日本マクドナルドの藤田田(1926-2004)、マクドナルド・コーポレーションのレイ・クロック(1902-1984)、そしてマクドナルド兄弟のことについて、自分なりに整理をしてみたいと思っていた。
藤田田の著書「藤田田 語録」「金持ちラッパの吹き方」「勝てば官軍」を読んでみて気がついたのは、苦労話がまったく書いていないことだ。それまでクリスチャン・ディオールのハンドバッグを売っていたのとは違い、飲食業はまったく別だったはず。週末にはエプロンを付けてキッチンの隅に立っていたらしいが、そのことも書いていない。それと藤田商店がマクドナルドを始める経緯については、どうもレイ・クロックからの提案だったようだ。当時、シカゴのマクドナルド本社へは日本の商社が多数訪問していて、実際にはダイエーが本命だったがご破算となり、藤田田にフランチャイジーになるように話したらしい。
1971年、米国本社が50%、藤田商店が25%、第一屋製パンが25%で日本マクドナルドをスタートしているが、1社取引は出来ないということで第一屋製パンが降りてしまう。結局藤田商店が唯一のパートナーとなりマクドナルド本社とは30年でフランチャイズ契約しているのだが、ロイヤリティーは売上の1%ずつと低く、それだけレイ・クロックと藤田田はお互いに信用していたのだろう。
日本の第一号店はもちろん1971年の銀座三越店だが、マクドナルドのイギリス上陸が1974年だから、世界的にも日本は結構早くオープンしたことになる。オープンにあたり藤田田が素晴らしかったのは、メニューをローカライズしなかったことだ。それまで海外のハンドバッグや宝石を売っていたから、ローカライズを考えていなかったと思うし、飲食業の経験も無かったことが良かったのだ。マクドナルド兄弟の9種類のメニューを変えなかったレイ・クロックと同じ思考だ。

レイ・クロック
「クロックは欠点のある、問題の多い人間で、気むずかしく、短気、偏狭なことで有名だった」ジョシュ・オザースキー「ハンバーガーの世紀」2010年
レイ・クロックについて、これまた180度見方が変わったのは、1961年マクドナルド兄弟から商標使用権と営業権の買い取るまでの間、フランチャイズを売る以外の一切の権利が無かったことだ。この忍耐はすごいものだと思う。フランチャイズのロイヤリティーは売上の1.4%がレイ・クロック、0.5%がマクドナルド兄弟となっていて、この条件を呑んだということは、50才を過ぎて単にミキサーのセールスマンで人生を終われないものがあったのだろう。
この条件下でフランチャイズ販売会社「マクドナルド・システム」を1955年に設立して1961年までにフランチャイズの権利を250店売っている。その間、彼はマルチミキサーからの収入で生活し、マクドナルドからの給料は1ドルも受け取っていない。だから、1961年にマクドナルド兄弟に270万ドルを払って全権利を買ったあと、近くに店をオープンして兄弟の店をつぶしたのも、今となっては納得できる。彼は死ぬまでマクドナルド兄弟のことを許さなかった。
レイ・クロックは自伝を出しているのだけど(Grinding it out: the making of McDonald’s 1977年)、これを読んでもあまりピンと来なかった。しかしながら1986年のMcDonald’s: Behind The Arches(邦題:マクドナルドわが豊饒の人材)はびっくりするほど面白い。途中からの会社の拡大と資金繰りがとてもリアルで、ビジネス書としては一級だ。
マクドナルド兄弟
マクドナルドの名前は知っていても、リチャードとモーリス兄弟のことは知らない人がほとんどだ。
1948年、兄弟は20万ドルの売り上げがあったドライブインを閉鎖してハンバーガー15セントの店をオープンするのである。これが私たちが食べているマクドナルド・ハンバーガーの原点。徹底したスピード、清潔感、品質のDNA誕生だ。兄弟は調理器具を次々と発明して、ファーストフードを確立していくのだ。1952年には「アメリカン・レストラン・マガジン」のカバー・ストーリーに登場していたくらい、評判の店だったらしい。
レイ・クロックが必死の思いでフランチャイズを売っていた1950年代中ごろ、兄弟には店の利益10万ドルが入ってきていた。1952年には「スピーディー・サービス・システム」のフランチャイジー募集の広告も出している。レイ・クロックと会うのは1954年のことである。だから、兄弟から見ればレイ・クロックとビジネスで心中するつもりは無かったと思う。1961年に権利を売り、リタイヤしたことは間違ったとは言えないだろう。
最近は映画「ファストフードネイション」や「スーパーサイズ・ミー」でハンバーガーにとっては逆境だけど、マクドナルドに入ったらハンバーガーかチーズ・バーガーを食べて欲しい。この2つは1948年から変わらない。そしてお釣りはカウンターにあるドナルド・マクドナルドハウス募金箱へぜひ入れてください。

1948年のマクドナルド兄弟